2017年12月13日水曜日

日経新聞のRSSが読み込めない

feedlyを使っているが二か月前ほどから日経新聞電子版のRSSが急に読み込めなくなっており、不便していた。
いろいろ調べてもどこにも対処法がのっておらず意外とRSSを使って読んでいる人が少ないのではないかと思いつつ、Twitterを使った方法が最も良さそうだった。

Twitter great rssで上から二番目のuser?の部分にユーザー名を入れ込むことでrssが生成されるとのことで早速「nikkei」と打ち込んだところ無事rssが取得できfeedlyでも読むことができるようになった。
一応、下記のようになる。
  • https://twitter-great-rss.herokuapp.com/feed/user?name=nikkei&url_id_hash=3119909dd9fdd847b18e4ac5d9c83d050ca57b1b

ただそれでも不便なのがpocketとの併用の際にわざわざリンク先の日経新聞電子版のページに飛んでから保存しないと、Twitterページがpocketに保存されてしまうという手間がかかる部分がある。

しばらくはこれで様子見をしようと思う、忘備録まで。

2017年10月15日日曜日

何か高尚なもの

何か高尚なもの、それを書かなければならないと思っている。
どこかこのくだらない現実から遠く離れたようなおとぎ話を書かないと、と思っている。
それは今こうした現状からの逃避なのかもしれないが、一方で逃げても逃げても付き纏うような影の存在として現実の問題からは離れることができない。

現実問題が大きくなると何か高尚なものを書かないとと思う私は板挟みになって何も書けなくなってしまう。
実際、もう手記でさえほとんど書く気がない。
書かなければならないという焦燥は濁流の中、藁にも縋る気持ち、である唯一の藁なのかもしれない。

日常は耐えず切羽つまり、仕事というのも馬鹿馬鹿しい気持ちがしている。
一体、高尚なもの理想とするもの、その何かが言語化できないままその言葉だけが一人歩きをしていって遠くに行って幽かな光となってたえず私を歩かせようとする。
その理想とは、言語化してしまえば解体してしまうような儚げなもの、いわばその程度のものとして私の遠くにある。

遠くにあるとは美しいことで、近くにあるとは醜いこと。
近くにあると見なくてよいことを見る。
たえず朧気で幽かで、いつ消えるかわからないもののほうが、反対のことを言うようだけどずっと一緒にいるような気がする。

2017年6月23日金曜日

首にボールペン

首に名前を刻んだボールペンを突き立てて墓標にしてやろう。机に突っ伏した小高い頚椎の丘。倒れないようにより深く突き立てねばならない。

そう考えながら、僕は上長の話を聞いていた。(だいたいにおいて上司という表現を好かない、それはよりサラリーマン、自らが奴隷だという実感が伴うからだ)
そういうわけで私は眼を飛ばして殺意を伝えていたらしい。

「なにメンチ切っとんねん」という関西弁、不愉快な言葉を聞いてこの大阪という悪性腫瘍の象徴であるこいつをまずは懲らしめる必要があるのであり、私は仕事を失おうとそれが目の前の人間を潰すより重要なのかというつもりでボールペンを固く握っては、突き刺すことを想像した。何も失うものがない。いざという時には俺はこいつを殺す。

怒りのまま黙らされ、怒りのまま人を黙らせるという暴力の非言語的な経験に強く影響を受けているのだろう。
つくづく私は卑しい人間だと思う。自らの暴力性さえも制御できない動物のような人間だと思う。実際、私は蔑まれる人間に違いなく失望される人間に違いなく、そういう性質を濃く持った人間なのであってそういうレッテル貼りを自らしなければとても現実を受け入れられないなあと、そう思いながら、私は父親と同じように反逆して結局は自らの首を締めるようなことをしていると面白おかしくなってこんなときに血は争えないというのだろうね、と自嘲気味になり身体の力はぐったりと抜け、目だけは未だに自らの眼球を地に落とそうとするかのように血走っていた。

結局、眼を背けたのは上長のほうだった。動物のような世界では少なくとも私が勝ったのだというくだらない自信だけがあった。