2015年6月1日月曜日

精神の抜け殻

何かを記すことは形骸化した精神を集めることだ。
そこに精神はなく、精神の足跡だけが、抜け殻だけが、残されている。
そして、私は精神の抜け殻を日記に書くことによって、収集し、その幾つかを此処に放り投げている。
なぜ、私が投げるのか、わからない。
空虚であると同時に愉快だからかもしれない。
もしくはごく少数の読者が、そうさせるのかもしれない。
読み手を意識した文章というのは、ひどく醜く、吐き気を催す。
もちろん、これは他者にも強く感じるが、何よりも自らに感じるのだ。

私は今、日記に書かれた精神の抜け殻をタイピングで打ち込んでいるが、この行動を文章に表すと、滑稽で無様である。

私は生に疲れている。「生に向き合わざるを得ない生」というのは、とても苦しい
私は一体、何度同じことを繰り返し問うただろう。
そして、その後で必ず、「全ては虚しい」と答えたことも。
こんなに若くして、もう先が見えてしまうような私の貧困な言語と創造にうんざりさせられる。

私は絶えず「何が楽しいのだろう」と思う。精神を記述するという行為でさえも。
だけど、結局のところ、そう思いながらも精神の抜け殻を大量に生産しているのであり、此処が虚無の終着点なのだろう。
私は、幼少の頃、外界にしか興味がなく、生きる意味についてだって「生きているのだから、在るだろう」くらいにしか思っていなかった。
そんなことを考える余裕なく、私は素晴らしい友人に囲まれていたし、いつも外で遊んでいた。


しかし、私は今、世界のすべてを見た気になって、疲れ果てたように内面を旅している。
外界にときおり、楽しいことがあっても、ちっぽけな薄氷が辛うじて深海に引きずり込むことを防いでいるだけであって、いつも諦念が同席しているのだ!
内面について、もっとワクワクしていてもおかしくないはずだけど、私は完全に外界に期待していた過去があり、裏切られたために、こうして深海で溺れ、もう底に馴染んでしまった。

私の書くという行為は、虚しさに耐え忍ぶのみ。此処は虚無の最果てである。
しかし、いつも何かを消し去り、壊してきた私は、精神の抜け殻だけは捨て去る気にはなれない、唯一、大切なものだ。
私の精神の置き場所は他人にはなく、単一で此処にしかない。本当に此処だけなのだ。
だから、精神の抜け殻を失くしてしまったら私は悲しむ。

もし腕がなくなって書くことが容易でなかったらどうしよう!?
そんなことを考えるとゾッとする。私に襲いかかる虚無感を、口による記述の速度で逃げ切れる自信がない。
私は足なんて...。歩かないといけない足は行動の象徴だ。私は手が欲しい。
手は精神の象徴だ。
もし私に手がなかったなら、私は動きで「絶望」を表現をするような完全な狂人になっていたことだろう。
今だって、私は文字の中で完全に狂人だ。手がなく記述できなかったら、私は、そこかしこに自らの頭を叩きつけ、何もかも蹴り上げ、最後には、頬で体重を支えるようにして這いつくばることだろう。

私は虚しく、唯一、精神の抜け殻集めが、精神と身体を繋ぎ止めている。

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