2016年7月19日火曜日

人間社会がなんだ

人間社会がなんだ。

出勤前、人間の社会が何だろう、大したことないんだというひどく抽象的でいて妙に誇らしげな感覚を抱えていた。
会社に着くまでの間、労働が機械に取って代わられるとして・・・ということを考えていた。
そうすることであたかも労働当事者たる俺が俺から離れることができる気がしたからかもしれない。
この営業職が機械に取って代わられたとしたら機械が価値を生むようになるだろう。いいや、そもそも俺はこの職業にあることでなにか価値を生んでいるのだろうか。俺が新規の案件を取ってくれば会社は儲かる。もし俺でなく機械だとしても会社は儲かる。
つまり俺の存在は代替が利くのだ。

こういうことを考えては俺の存在とは一体なんであろうと思い至る。
俺は会社の歯車だ。使用人たる社長は何の歯車だろう。会社、世界、はたまた・・・
偉くなれば偉くなるだけ抽象的になるのだろうか。
それでも会社、社会、世界、どれも人間がいるのだから人間という共通項は同じなんだ。
あと違うとしたら人に与える影響の大きさくらいのものだ。

俺の人間に与える影響なんて何もない。
俺がが機械に取って代わろうが、何の影響もない。
そして使用人たる社長は私腹を肥やす。
だが俺の想像する使用人たる社長は私腹を肥やすことだけを考えているのだろうか。一代で会社を築いた人間だ。俺はビジネスのことについて語ることを嫌うがさして使用人たる社長は嫌いではない。

社長は仕事を生き甲斐にしているのだろうと思っている。俺も多かれ少なかれ、こういう労働という偉大なことに従事していると錯覚させる暇つぶしはある程度、人間には必要なのではないかと思っている。
けれども機械にとって代わられると余暇、文字通り暇があまり、金の価値は希釈されゆく。もちろんこれは労働の対価という観点からのみ金を稼ぐことのできる男にとってだが。

俺にとって労働は義務でしかない。せざるを得ない仕方のないものだ。
楽しいと思ったことはあるが、続けたいと思ったことはついぞない。だから今は自己を犠牲にただ生活を成り立たせているのだ。
その先に何があるのか俺は知らない。
ただ、俺は文章で人を魅せたいという夢はある。

人間の、人間でない部分を働かせているのが労働である。
眩しく目の開けられないような道中を経て、妙に落ち着き払って職場の人間におはようとあいさつをする。
人間の、人間でない部分の歯車と歯車を噛み合わせて俺たちは後光にあやかっている。光りを発する何かを直視できずに。

2016年7月10日日曜日

相貌

今日、免許証を更新した。
そして当然のように写真を撮られた。
撮られる間際にシャツの襟を立てようと思ったものの、何の合図もなく撮られてしまったために自身の姿はみすぼらしいものだろうと考えながら講習を受けていた。

自分の名前が呼ばれてから受け取るまで、私は窓際の列に並んで呼ばれるのを座って待つ人々をなめ回すように眺めていた。髪が青い女性、とんがり靴にパンツにチェーンをぶら下げた禿げたおじさん、何の印象も与えない青年、無関係な人たちと私との間には免許更新に来ているというただそれだけの共通点があるという不思議さに胸をうたれていた。
免許を受け取る間際には座って待機している人も少なく、私は手を伸ばしても届かないであろう距離にいる女性を見ていた。皆が皆、わき見反らさず一直線に免許を更新するという単一の目的の中、遮光シャッターの隙間から光りがこぼれていて、その光りに目を奪われている目的から外れた数瞬の女性は人間だと思った。

果たして小さな枠には世に埋まる顔つきの男がいた。
社会人二年目の生活を経て私は何一つ棘のなさそうな男の顔をそこに見たのだった。
これは一種、何かを成し遂げたいと心の奥底で思う私にとっては衝撃的なことだった。
この何でも言うことの聞きそうな男は人のいいなりに動けているかどうかは別にしても、いいなりであろうとする心の持ちようが相貌に反映されたに違いなかった。
そのときになって、ようやく私はサラリーマンなのだという感を得た。
これまで会社員という表現が私にとっては会社に属する一個人という意味合いであったのに対して、会社に属さなければならない一個人という意味合いのサラリーマンという表現が腑に落ちた瞬間であった。
あれは紛れもなくサラリーマンだった。
単一の目的以外にものを考えられない男の顔がそこにはあった。

2016年7月8日金曜日

誰にも見られない意識を持つこと

誰かに見られることを意識して書くのはさもしい。

私は見られることを意識してしまってこの最果ての場所にいる。
誰も届くことのない隔絶した領域へのはじめの一歩だ。