2016年10月27日木曜日

片足

どうして自由があるのか、知っているかい?

そう問われて私は以前、男が言っていたことをそのままに「不自由があるからでしょう」と答えました。そうして、男は何事もシノニム、アント一体の思想を体現すればこそ生きていけるのだと冷静を装ってその実、得意げなとある表情で言うのです。

死ぬ手段が身近になければ自ら死んでしまうのではないかしら、殺すことを考えなければ人を殺してしまうのではないのかしらん、俺はつくづくこういったことを考える。どこか片足を別のところにおいて生きなければ何事も苦しく、その痛苦のためにかえって人は両足を失いかねない。

 __それよりは片足をどこかに隠して置いておいたほうがいい、というリスクヘッジの話をしているのでしょうか。いいえ、それにしてもこの男は随分と不安定で刹那的のように見えます、むしろ片足だけのために万事、中途に終わっていて何事も誠実さに欠けるのです。この本心をかつて男に吐露してしまったことがありますが、即座にその通りだ、けれども譲れないものがある、それはポエジイである!と意気揚々と語るので、こんな金にもならないことを十七冊も書いて仕方がないという気持ちと、三島の女神だったでしょうか、「お嬢さん方、詩人とお附合いなさい。何故って詩人ほど安全な人種はありませんから」という一文を思い出しては、果たして安全とは何だろうかと首をかしげる思いがするのでした。

決まって男がこういう哲学趣味な問いかけをするとき、酒に酔っているのであり、あれほど嫌っていた泥酔多弁のお父様だったかしら、その悪形に似てしまうことを一体どのように感じているのでしょう、きっとお父様に似てきていることにもその例の哲学趣味から自覚的で、どこまでも自覚的、その眠りなきこころに、はらりと涙する思いもあるのです。

もしかすると、そのお父様に似ることやで憎悪の根っこを引きちぎるつもりだったのかもしれません。私もまた、この片足の、憂いを帯びた男と付き合うにつれて否応なしに考える癖がついてしまったのかもわかりませんが、酒や煙草をのむようになったのも自ら悪形、同類となることで憎しみを忘れようとしているのでしょう、そういえばこんなことがあったものです。

虐待を受けた子どもが親になったとき、どうして加虐傾向にあるか知っているかい?痛いからって他人にもしないようにと思えるのは軽傷な人間だけなんだ、殴られて痛い痛い、さあ痛みがわかった、僕も殴らないようにしよう、そんなのは痛みを知らない人間だ。逆説的だが、痛みを知る親は子を殴るんだ、ああ倫理的な言説は止してくれ、愛されるべきはずの者に痛めつけられる苦しみ!赤の他人だったらどんなによかっただろう。俺は殴るに違いない、今にお前を殴ってみせようと一気呵成に語って、酒を呷り、そうして、一呼吸ついて誰とも一緒にあれないと諦念を湛えてぽつりと呟くのでした。

半人前だろうか、半人前なんだろうなあ、どうも俺は父親を憎んでいる、それだから忘れ去るために同じことをするに違いないんだ。真に痛みを感じている者はきっと骨身にまで衝撃が加えられて変形させられてしまって、そしてどういう訳かその形を愛している、だから受け入れられるんだ。俺の傷は忌まわしいだけだ、こんな半端な傷なければよかった、どうせならぐさり、ぐさりと傷跡を残してくれればよかった。けれど隠秘できてしまう程度だから体裁を保ててしまう。それでいて傷はいつしか膿んでじくじくと痛む。傷を露わにして外気を当てねば癒えぬ、しかし小さいものだから隠してしまう、その中途半端さが自らを内へ内へと追いやる。その思想はただの膿みだ、これまで考えていたことは膿みで何の益もない、ただただ小さい傷を奥底まで深めただけだ。それだからポエトは小さく醜い、あまりに偏執的、そしてあまりに汚い分泌液!

そのとき私はその傷を隠す、あなたの知性が大きかったせいだわ、とでも言えばキザだったかもしれませんが、今こうして思いつくこともありましょうが、そのときの男を前にして、私はただ静かに呻吟するのみでした。

実際、男はその思想が後年に生きるとも考えていたのかも知れません、けれどもあくせくと働いているところを見るとその思想は何も生かせていないようでもあります。そうでないとここまで狂おしいほどの卑下はなさないでしょう。
つまり、片足の思想とは傷を隠すために片足を潰えたのであって、やはり何もリスクを考えてのことではなかったのです。まさに片輪思想!男もこのことには気づいていることでしょう。
両足、シノニムとアント、虚無世界と虚偽世界、何も体現できてはいないのでした。

灰と眠れ

煙草を水曜日の夜に吸った。

お香の灰と煙草の灰が混ぜてみる。
すると白蛇の鱗のような、いつ朽ちるともしれない灰は灰に還る。
もちろん灰なのだから特別に書くようなことはないと思う。
それでも私はあの剥がれかかった壁面の塗装のような灰、灰とのみ記すにはあまりに説明に欠けた灰、つい手を出さざるを得なくなるような浮ついた白い灰が気にくわない。

昔、身体測定の順番待ちをしている最中に壁をぼうっと見つめていると剥がれかかった塗装があった。
壁と塗装の間に爪を入れ込むとぺりぺりと小気味のよい音をたてるのが心地よく、爪に外壁の破片が刺さって血が滲んでも無心になって塗装を剥いで、剥き立ての卵のように生まれ変えては一人悦に浸っていたものだった。
気づくと私の近くに破片が散らばっていて、遠くにいくつかの視線を感じた。
近くの破片の存在がやけに私を孤独にさせた。
(そういえば、あのとき僕は身体測定が終わった後、「壁を剥いで汚したのは誰ですか?」と問われて挙動不審になったのだっけ。そして周囲の目線に耐えかねて、何も言わずに手を挙げたことを覚えている。そして僕は職員室で怒られた。気をつけますと言ったきり済むと思いきや、マイナスをプラスに変えるにはどうしたらいいか、と問われて普段からゴミを拾いますと言ったのだった)

私は一人きり。
煙草を吸い終わると黒と白から成る灰を丹念に混ぜて灰色に返す。
これは夜、私が孤独に悲しまないようにする無意識的な儀式である。