2016年11月25日金曜日

溺れる

私は落ち葉を眺めている。最近になって冬の匂いも感じられるようになり、年の瀬も近付いて来ていると感じた。

私はサボるということに非常に執着がある。思えば小学校の頃から仮病を使っていたし、中学では友人とサボって電車で遠くに行ったり、高校では一緒に勉強する人がいないからと一人で図書館に行っていた。
そうして大学生の頃はサボることが仕事のようなものだから帰ってサボりがいのなさに怠惰な日々を過ごしていたように感じられる。
皆が一斉に盛んに動き出す頃に私は沈黙し、皆が一斉に眠りだす頃に私は目を覚ます。

実際、サボったからといって何も得るものはないのだけれど、今になって私はどうしてサボっていたのか、サボっているのだろうと思案する。
単に勉強がつまらなかったというのと、義務があることでそこから離れたときの自由というのがたまらなかったのかもしれない。
授業を仮病で休んで一人家に帰る道中の幸せといったら、あの空の大らかさといったら、何事にも変えがたい。

何か義務というのは、教科書の通りに進んでいって先が見え透いている。
けれどもそこから離れたものというのは予想がつかない、その予想のつかなさから何か得られるのではないかという期待があるのかもしれない。
実際、サボっているときに本などを読むとこの上なく充実しているように感じる。
実際には十数ページで飽きてしまうのだが。
そうして、二分切れ負けの将棋をひたすらにしている。

そういう期待に私は生きているのかもしれない。
そうしてその自身に納得しないのだからこの病の根は深い。
あくまでも私は在りたい自分というのに今の自分を投影しているのだから。
そうしてその投影の確固たる理想のためには他者の意見には一切耳をかさない。
それだから何の成長もなくただ幻影だけが肥えてゆく。

もっとも最近では私は自我に執着することをやめて理解ある者と過ごしている。
そういう幻影が不毛であることに気付かせてくれたし、非常に理知的で病理をあぶり出してくれた。
おそらくは私は自身ではもう修復が不可能なほど孤独に親しんでしまった。その幻影というのは紛れもなく自らの作り出したものだが、その幻影に雁字搦めにされていたのだろう。

私はとにかくこれまでの私と離れる。
片足の思想ではなくて、両足を踏み込んでみる。
もう戻れないかもしれない。
けれどもそうでなくてはその物事を十分に楽しめないのだから、私は自分を捨てようと思う。

そうして他に尽くしてみる。
仕事もそう、溺れてみる、読書もそう、溺れてみる、彼女にも溺れてみる。
全てが"溺れる"と形容したいほどに怖いことばかりだが、そうしないと私には何も残らない。

何だかジェットコースターに乗っている最中に慣れたと思う瞬間があるでしょう、その感覚があるので私はここを生きていけると思う。

裸体

昨日、実はあのあとストリップ劇場へと足を運んだ。「渋谷道頓堀劇場」の側を通って名曲喫茶に行ったのでその名前の可笑しさ(渋谷と道頓堀が一体どう繋がるのか)には目をひかれていた。
名曲喫茶の非日常さが私に行かせたのかもしれない。
喫茶を出たとき、このまま帰るのはなんだか勿体ないと思ったのだ。

それで勉強のためという建前のもと欲望を感じながら赴いた。
緊張しながら入ると、私は入り口近くに立ち尽くした。
適当な落ち着けそうな場所を見つけられなかったのである。
みぞおちくらいの高さにあるポールを掴み、少し体重を預けながら私は着衣している女がほんとうに脱ぐのかという緊張感を持って見つめていた。
大きな拍手と光、クラブでかかってそうな雰囲気の音、何もかも非日常的で、そこに鎮座する女もまた刺繍をしていて全く私と異世界にいる女のように思えた。

女が踊りながら脱ぎ始めると、私は周りの観客の様子も気になった。
目の前の裸体よりも同じ性を持つ男が異性を前にして一体どういう反応を示すのかということの方に興味があったのである。
食いつくように見るもの、うなづきながら見るもの、酒を飲みながら見るものがいていずれも真剣にじっと見ている。
そして、そのとき私は神経質そうな男が多いことにも驚いた。

…その呑気な分析もほどほどに私はポールを持つ自らの指先がたしかに脈打っていることを確認した。
目の前の女が全裸になっているのである。
それを見たとき、女は動いて確実に生きているのだという至極当然の感想を抱いた。
おそらく、胸の下から鼠径部にかけて伸びる血管が青く透けて見えたことがそういう感を抱かせたのであろう。
そして陰部は見えたり見えなかったりの焦らしがあり、私はその挑発には乗らず見えるときには最大限注視し、見えないときには力を抜いて、来たるべきときに備える、さながらスナイパーのような目をもって的確に陰部を見た。
興奮がなかったかと問われれば嘘になるだろう。けれどその性器を見て、私は性器を突っ込むことを想像できなかった。
それよりもその性器が一体どれだけの目に堪えているのだろうということ、そこから子が出ずるであろうこと、そして私はこういう似た形の性器から這い出たことなどに思いを馳せた。
そうして女は皆、性器を持っているという理解に至ったのである。

ある種冷静な分析は踊り子は見られることに専心していて、またわれわれは見ることに専心していたからだろう。
視線と視線の摩擦のなさが私の心にも火をつけず、それ故に視覚への刺激と裏腹に何も感じなかったのである。