2016年11月25日金曜日

裸体

昨日、実はあのあとストリップ劇場へと足を運んだ。「渋谷道頓堀劇場」の側を通って名曲喫茶に行ったのでその名前の可笑しさ(渋谷と道頓堀が一体どう繋がるのか)には目をひかれていた。
名曲喫茶の非日常さが私に行かせたのかもしれない。
喫茶を出たとき、このまま帰るのはなんだか勿体ないと思ったのだ。

それで勉強のためという建前のもと欲望を感じながら赴いた。
緊張しながら入ると、私は入り口近くに立ち尽くした。
適当な落ち着けそうな場所を見つけられなかったのである。
みぞおちくらいの高さにあるポールを掴み、少し体重を預けながら私は着衣している女がほんとうに脱ぐのかという緊張感を持って見つめていた。
大きな拍手と光、クラブでかかってそうな雰囲気の音、何もかも非日常的で、そこに鎮座する女もまた刺繍をしていて全く私と異世界にいる女のように思えた。

女が踊りながら脱ぎ始めると、私は周りの観客の様子も気になった。
目の前の裸体よりも同じ性を持つ男が異性を前にして一体どういう反応を示すのかということの方に興味があったのである。
食いつくように見るもの、うなづきながら見るもの、酒を飲みながら見るものがいていずれも真剣にじっと見ている。
そして、そのとき私は神経質そうな男が多いことにも驚いた。

…その呑気な分析もほどほどに私はポールを持つ自らの指先がたしかに脈打っていることを確認した。
目の前の女が全裸になっているのである。
それを見たとき、女は動いて確実に生きているのだという至極当然の感想を抱いた。
おそらく、胸の下から鼠径部にかけて伸びる血管が青く透けて見えたことがそういう感を抱かせたのであろう。
そして陰部は見えたり見えなかったりの焦らしがあり、私はその挑発には乗らず見えるときには最大限注視し、見えないときには力を抜いて、来たるべきときに備える、さながらスナイパーのような目をもって的確に陰部を見た。
興奮がなかったかと問われれば嘘になるだろう。けれどその性器を見て、私は性器を突っ込むことを想像できなかった。
それよりもその性器が一体どれだけの目に堪えているのだろうということ、そこから子が出ずるであろうこと、そして私はこういう似た形の性器から這い出たことなどに思いを馳せた。
そうして女は皆、性器を持っているという理解に至ったのである。

ある種冷静な分析は踊り子は見られることに専心していて、またわれわれは見ることに専心していたからだろう。
視線と視線の摩擦のなさが私の心にも火をつけず、それ故に視覚への刺激と裏腹に何も感じなかったのである。

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