2016年12月10日土曜日

部品

昨日は会社の人間と飲んだ。
こういう表現が一体どれだけの人たちの目をひくのか私はわからない。
一人間のありふれた独白というものに関心を持つものなどいないからだ。
独白、ただ私は独白しつづけようと思う。

その独白に意味はない、というとき私はきっと子供らしい過ちをおかしているのだ。
なぜ空は青いの?
そう問われてとっさに説明できはしないけれど光りの性質がそうさせるのだという科学的な説明はいくらでもできるはずだ。
そしてそれを成り立たせる根拠の根拠がまたあってきりがない。
それと同じように答えれば私の独白というのは根本的な寂しさから来るものだといえる。
なぜ寂しいの?
そう問われると、根拠の根拠を探してみたくなる。
ーーーー昨日、会社の人たちと飲んだのだ。
そこでは私は大きい案件を決めたからということもあっていつもより気楽で鷹揚に構えていることができた。
別に話の内容は大したことがない、実は人間嫌いだったり孤独だったり普段話さないようなことを特別に話したということをわかってもらえたらそれでいいのだ。
そこで、私はこういう会社に関係のない話で盛り上がりたのしい思いをした。一方で、会社を離れればいっさいの関わりを持たないであろうし、そういえば学友もまたいっさい連絡をとらないようになってしまって、どこまでも落ち着く場のない人間なのだということにしんみりしてしまったというわけなのである。
思えば、父親も母親もそういう人間なのである。
寄る辺のない、広がりを一切持たない関係のなかを生きているのだ。
そうして、誰に思われることなく彼、彼女は死にゆくのである。

終わってしまえば何もかも今が無駄に思えてしまうような、そういう一日が人にはあるはずだ。
それは私にあるのだから無論、おまえたちにもあるのだろうという乱暴な推論。
ただ、そういう推論によってしか人の気持ちをくみ取れないという気がしている。

私はとにかくどうでもいい一人から抜け出したい。
これは常に特別視されたいという、肥大化してしまった自己の言葉である。
私は誰からも特別されて然り、特別視されていなくともきっと今や遠くない未来、特別視されるであろう期待に生きている。
だから、実際に特別視されてしまった今、ひどくつまらないと思う。
お前は社長賞を狙えるだろう、HやNなどは相手にならないだろう。

ああ、たしかにそうだ。相手にならない、こいつらはどこか私を見くびっていやがるんだ。ただの年上というだけで偉そうにしている。
会社!ひどく馬鹿らしい、こんな話を私にさせないでくれ!
誰もが私を知らない、そんな中でこんな話をするとは、私は部品ですと言っているようなものだ。
ああ、私は部品さ。そしてそのことを徹底的に否定している部品なのである。
だから今に見ておくといい、私はもっとも称えある賞をとって部品として誰よりも全うすることでついに部品という劣等感を克服するであろう。そしてその後にやめるであろう。そして、その上の人間のあっけにとられたような顔を見るのが今から楽しみなのである。
そういう空想を私はした。

2016年12月1日木曜日

稀薄な重さ

頭が重い、ただ重く何事かを考えることがままならない。
今日は曇りであって、気分が優れない。

こんなとき、書いているときであれば特に問題にならなかったが書くことをやめると単なる鬱というか、鬱に悶え苦しまざるを得ないみたいだ。
思えば、ふとすると心が重くなり、ふとすると心が軽くなるという揺り返しがこれまでに延々とあって書きながら今日は重たい日だ、数瞬のものだから何とかなるだろうという気楽さを獲得していた。
ところが書かないとなると、それが永遠という気がしてくる。

私は文章によってその日の気分を記してゆく。
明日の気分予報というのができた試しなんてない。
けれど、書くと文字は書かれる。その積み重ねでノートがたまっていくことが自分の存在を確かめているような気がされて心地がよかった。
「ああ、これは一ヶ月ぶんの重みだ」
そう思うことで存在を確かめられていたような気がする。

しかし、感覚の定量化をやめようとしている。
何かを語ろうと、記そうと努めること。
そして私はこうも思っている、子供のとき語彙が少なかったからこそ美しさを表現することによって損なわなかった、そして私が大人になってしまった以上(悲しいことに誰もが言葉を覚える)言葉で語り尽くそうとすることでその美しさに近づくことはできるのではないだろうか。
なるほど、その心がけは素晴らしい。
けれども努めようとしている時点で、すでに美しさというのは遠く彼方に、色鮮やかなものは褪色していることに、気付かなかったのだろうか。
感じなければならないことを感じようと努める、その馬鹿らしさ!
そういう気苦労を書くことによって助長していたのである。

書こうとするとまだタイピングがまだ上手くなく心と身体がちぐはぐな感じがされて心地よくない。
なので徐々に慣れてゆく。
読まれない文章には価値がない、少なくとも自分にとってはそうだ、そういう考えに半ば強迫観念的に思う節がある。
自分さえ幸せであればそれでいいという考えだったけれども、それではなにか違う感じがしている。

ここでは誰かしらが読んでいる。
読まれていることをほんのり思って、こうして文章を公の場に投げようとしている。
こういう感覚に拒絶があったはずだけれど、それにも慣れていく。
内的に表現する。あくまでも自らにわかる形で表現する。
ああ、それは表現なのだろうか、一体誰に示している?
自負自身なのだろうか。
書き手は自分、読み手も自分。読み手だけが分裂していく、ああ次第に拍手喝采が聞こえてくる、一体どれだけ人が増えたことだろう。ああ罵詈雑言、一体どれだけが…。
存在が稀薄になっていく。

読み手を自分以外の他者に置かせてもらう、そういう不躾さを実践していく。