2016年12月1日木曜日

稀薄な重さ

頭が重い、ただ重く何事かを考えることがままならない。
今日は曇りであって、気分が優れない。

こんなとき、書いているときであれば特に問題にならなかったが書くことをやめると単なる鬱というか、鬱に悶え苦しまざるを得ないみたいだ。
思えば、ふとすると心が重くなり、ふとすると心が軽くなるという揺り返しがこれまでに延々とあって書きながら今日は重たい日だ、数瞬のものだから何とかなるだろうという気楽さを獲得していた。
ところが書かないとなると、それが永遠という気がしてくる。

私は文章によってその日の気分を記してゆく。
明日の気分予報というのができた試しなんてない。
けれど、書くと文字は書かれる。その積み重ねでノートがたまっていくことが自分の存在を確かめているような気がされて心地がよかった。
「ああ、これは一ヶ月ぶんの重みだ」
そう思うことで存在を確かめられていたような気がする。

しかし、感覚の定量化をやめようとしている。
何かを語ろうと、記そうと努めること。
そして私はこうも思っている、子供のとき語彙が少なかったからこそ美しさを表現することによって損なわなかった、そして私が大人になってしまった以上(悲しいことに誰もが言葉を覚える)言葉で語り尽くそうとすることでその美しさに近づくことはできるのではないだろうか。
なるほど、その心がけは素晴らしい。
けれども努めようとしている時点で、すでに美しさというのは遠く彼方に、色鮮やかなものは褪色していることに、気付かなかったのだろうか。
感じなければならないことを感じようと努める、その馬鹿らしさ!
そういう気苦労を書くことによって助長していたのである。

書こうとするとまだタイピングがまだ上手くなく心と身体がちぐはぐな感じがされて心地よくない。
なので徐々に慣れてゆく。
読まれない文章には価値がない、少なくとも自分にとってはそうだ、そういう考えに半ば強迫観念的に思う節がある。
自分さえ幸せであればそれでいいという考えだったけれども、それではなにか違う感じがしている。

ここでは誰かしらが読んでいる。
読まれていることをほんのり思って、こうして文章を公の場に投げようとしている。
こういう感覚に拒絶があったはずだけれど、それにも慣れていく。
内的に表現する。あくまでも自らにわかる形で表現する。
ああ、それは表現なのだろうか、一体誰に示している?
自負自身なのだろうか。
書き手は自分、読み手も自分。読み手だけが分裂していく、ああ次第に拍手喝采が聞こえてくる、一体どれだけ人が増えたことだろう。ああ罵詈雑言、一体どれだけが…。
存在が稀薄になっていく。

読み手を自分以外の他者に置かせてもらう、そういう不躾さを実践していく。

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